20220816
越後を歩く(4)-教員になった島見の人-
プロローグ
表題の島見の人とありますが、金田史郎さんのことです。金田さんは筆者と同じく亜細亜大学商学部と経済学部を昭和41年度に卒業しています。すでに56年の歳月が流れました。両人は恩師寺田剛教授の「歴史学特講」(ゼミ)の同窓でもあります。同ゼミのメンバ-は約15名と記憶しています。寺田教授は最後の授業で諸君の成績は全員<優>を差し上げますのでと締めくくりました。以来、このゼミで教員になった1人が新潟市北区島見町(新潟空港近く)の出身の金田史郎さんです(寺田先生は2001年に亡くなられた)。
筆者は卒業数年後に金田さん宅を訪れ、奥様から美味しい手料理を頂き、夜遅くまで歓談しました。しかし金田さんに不幸が訪れます。遠足の下見の帰りに自動車事故に遭遇し、急逝されたのです。確か約1年後、筆者は墓参のため金田さん宅を訪れました。自宅内の盛り土の上にお墓がありました。道半ば黄泉の世界に入ってしまった金田史郎さんの心中が察せられます-以下、寺田剛先生の薫陶を受けた同窓がどのような人生を歩んだか!筆者の知り得る情報から半世紀後のゼミ仲間の動静です。
新潟空港
出典:「Wikipedia」
ゼミ生の人生
教員として
金田史郎さんは柔和な人で教員に相応しい人でした。少ししわがれ声でいつも微笑み浮かべていたことを思い出します。金田史郎さんと同じく教員になった人は静岡県焼津市出身の渡辺メイ子さんです-昭和41年3月15日(1966年)の卒業式で両親と和服で臨んだ渡辺さんは1週間後に病のため亡くなりました。後に寺田先生の自宅で追悼会を行いました時、寺田先生が今、メイ子の霊が風のように訪れましたと、語っていたのが印象的でした。渡辺さんは熱海の中学校の教員に決まっていました。
青森県弘前市出身の太田覚(さとる)さんは卒業後、青森県の高校教員(社会科)として採用され、県内の高校で教鞭をとられ、定年まで勤め上げました。明確な教育論をもった人で、“教員は天性の仕事”と自負していました。残念ながら定年から10年後に亡くなりました。熱海で寺田ゼミの同窓会が開かれ際、昔、奥様と新婚旅行で来ていた思い出多き熱海を再訪され、併せて同地で開かれたゼミ生だけの宴会に参加され1時間程で旅館に帰られました。
経営者として
著者の無二の親友が受園三朗さんです。大学入る前には自衛隊北部方面隊の戦車乗りとして日本の北の衛(まもり)として奮闘していました。除隊後、亜細亜大学商学部に入学します。いつも物静かな人で将来の自活の道を考えていました。有言実行の人で、通学時、姉の住んでいた西武線新宿線の入曽駅から歩いて15分ほどの入間野神社の社務所に住んでいました。
筆者も時々同神社を訪問してお酒を飲みながら将来の夢を語りあいました。実に何でもできる人でした。在学時、古びたプリンス自動車バンで鹿児島県肝属郡(きもつき)東串良町(ひがしくしらまち)まで休憩せずに約40時間かけて帰郷する人でした。卒業後、同町に帰られ、地元近くの高校で社会科の先生として教鞭をとっていましたが、暫くして、生徒の教育方針をめぐって理事者側と法廷闘争にまで発展し勝訴を果たした後、退職します。
錦江湾
出典:「写真AC」
新しい仕事として、日教組出身の参議院議員宮之原貞行氏(社会党)の秘書になり、約12年間奉職。筆者も時より議員会館に赴いては歓談する時もありました。ランチタイムには参議院の庭で営業していた日本蕎麦屋にて盛り沢山の美味しいざるそばを食べながら政治情勢などについて情報交換していました。
受園さんは参議院秘書を辞して帰郷し自動車整備会社を立ち上げました。加えて、独車ベンツの日本総代理店のヤナセのサブディラ-になり、主に九州地域、他地域にも積極的にベンツの販売に力を入れ、相当な実績を上げたようです。とにかく受園さんの突破力は素晴らしかった。
2012年8月頃と思われるが、受園さんから電話が入り、寺田先生の墓参りをしたいので連れていってくれないかとの要望があり、車で出かけます。先生のお墓は飯能市宮沢にある宮沢湖霊園内にあります。付近は風光明媚な地で受園さんは著者に「やっと念願叶った!」と何度も感謝しますと。同氏は途中、西武線の飯能駅前で下車しました。以来、受園さんと連絡は途絶えます。当日は早朝より荒天でしたが、午後から快晴となった。
それから半年たったある日、久し振りに受園さんの本社へ電話した所、奥様が出られた。「主人は体調をこわしているので」と前置きしてから当人が電話口に出られたが、ほとんど会話は聞き取れなかった。以来、音信不通となった。すでに10年程の歳月が流れた。友人によると、すでに亡くなれたとの情報がありました。
地元経済人として
桑原さんは群馬県勢多郡赤城村見立(みだち)出身(現在:渋川市赤城町見立)の人で、常に器用な人でした。大学卒業後、帰郷され電設会社を前橋市内に設立しました。従業員は20名ほどで活発な営業活動していました。私も同会社に赴き桑原さんから社員の人を紹介され、時折カラオケに一緒に出掛け、楽しい時間を過ごしたこともありました。
時には県内の温泉に出掛ける時もあり、悠長な時間を過ごさせて頂きました。5年程前に電話で話す機会がありました-「現在、赤城村にて村内の世話役として活躍しています」とのことでした。声も年齢を感じさせない若々しかった。それ以来、話す機会がなく、すっかりご無沙汰しています。
エピロ-グ
寺田先生の薫陶を受けた同窓の人々も80歳前後となり、筆者も81歳になりました。亜細亜大学へは自宅から歩いて10分程の距離です。校舎は一新され、昔の面影は無くなっていました。“亜細亜大学は発展”したのです。同窓の諸氏も大変喜ばれていると思います。筆者は毎日ブログや論文のネタ探しに奔走している此の頃です。来月、金田史郎さんの墓参に出掛ける予定にしています。
また、寺田剛教授の眠る飯能市内の宮沢湖霊園に墓前へ参り、先生に挨拶する予定です。因みに亜細亜大学の創設は1941年(昭和16年)、筆者の誕生日は昭和16年8月(1941年)です-多くの時間が過ぎました。時には夢の中で走馬灯のように寺田剛先生、同窓諸氏の顔・顔が浮かぶこの頃です!
亜細亜大学
出典:「亜細亜大学」
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹



