20220802
越後を歩く(3)-新潟市立曽根小学校を訪れる-
プロロ-グ
今から2年前、著者は自宅にて古い写真を整理していたところ、5~6枚の写真を見つけた。1枚は祖父(高沢政造)の曽根小学生高等学校高等第1学年(明治43年度<1910年>)の集合写真と当時の教員の集合写真である。生徒全員が着物(男子29名<着帽>/女子6名)である。校長は髯をはやし威厳のある顔(着帽/乃木大将と似ている)、教員(11名<うち女性教員は2人>)も同様であった-明治の人々の気骨をみた(写真参照)。


著者は早速、曽根小学校を確認するためにネットで検索した所-新潟市西蒲区曽根750に所在していることが判った。著者は当校に電話したところ、校長(松野孝雄校長)が電話口に出られた-著者は見つけた写真を差し上げます旨を話したところ、是非頂きたいとの返事であったので、直ぐに郵送した。しばらくして、著者は同校に電話し、祖父の最初の赴任地である同校へ是非参観したい旨を校長へ話した-2020年10月14日に赴くことになった。
曽根小学校
出典:「新潟市西蒲区」
訓導として
履歴書
2020年午前9時、従弟の運転で五泉市を出発した。上越新幹線・燕三条駅を通過し西に向かう。次第に弥彦山が見え始める。車は新潟県の米作地帯を横切る。空は澄み渡り、心地良い風が吹き抜ける。途中、味方村を通る-昔、著者の隣人に笹川さん(鍛冶屋さん)が同村の出身者であったことを思い出す。暫くして、学校の校舎が見え、カ-ナビは到着(正門)を表示。降車して学校の正面入り口に立つ。構内に入り下駄箱のスリッパを履き替える。小学校の下級生が大きな声で“こんにちは”-心が和む。
校長室に通される-松野孝雄校長から写真の御礼を言われる。早々に校史室で100年前の当校の写真展を開き、その案内を父兄に送りますとのことであった。校長先生から最初の赴任先は緊張します。将来に向けての気概が高沢先生の顔に満ち溢れていると言われた。
私も(松野校長)そうだった。爾来、11回の赴任先を替え、当校は12回目で、近いうちに退職しますとのことであった。最後に校長から「これが、高沢先生が当校に赴任した時の直筆「履歴書」です-110年前の祖父が書いたもので、毛筆で綺麗に書かれており、達筆である。几帳面な性格が読み取れる。
祖父来歴
著者の祖父(高沢政造)は新潟県北蒲原郡水原町大字水原612番戸(現:阿賀野市)で、明治19年(1881年生れ)8月30日生まれました。明治25年(1892年)4月1日水原小学校に入学します。明治35年4月(1902年)に県有数の新潟県立新潟中学(現:新潟高等学校)入学、同40年3月(1907年)卒業。同年40年7月、新潟県立師範学校入学します。

同41年7月(1908年)終了時に正教員免許状を取得。同44年12月20日、最初の赴任地が曽根小学校(現:新潟市西蒲区曽根750)の訓導として赴任。担当は小学校1年生です。生徒との集合写真を見ると、生き生きとした顔が印象的です。写真の裏には生徒全員の名前がフルネ-ム書かれている。

爾来、祖父は約半年曽根小学校から他の小学校に転校されましたが、何処の小学校は不明ですと、松野校長は言っていた-以後、祖父の経歴は不明である。残念ですが、高澤政造の子供達(一男3女)は既に黄泉の世界に入ってしまった。
エピロ-グ
終戦時、祖父は64歳でした。年齢から言って、祖父は現役(教員?)を引退していた。従妹の情報によると、終戦時、祖父はしばらく新津駅前(現在:新潟市秋葉区)で字が上手いことから代書屋を開いていた。明治・大正・昭和の時代は戦争、自然災害で、多くの国民を苦しめた。祖父も筆舌尽くしがたい人生を送ったに違いない。
その後、連れ合いと幸福な生活を送ったと思われる。祖父は温厚な人、物静かな人であったという。今も最初の赴任地の校史室で“生徒と将来を夢”見ている筈である。近いうちに筆者は曽根小学校を再訪する予定である-祖父と再会して、明治の訓導としての気概を見たい!
(グロ-バリゼ-ション研究所)代表 五十嵐正樹

