20220710
越後を歩く(2)-新発田の風雪-
プロロ-グ
22年6月1日、東京駅6時8分発の上越新幹線に乗ると、約2時間で新潟駅に着く。同ホ-ムの反対側に8時22分発のいなほ1号(秋田駅行/12時03分着)に乗り移る。新発田到着は8時46分であった。降車して改札に向かう。駅構内の印象は70年前(当時10歳)に父に連れられた当時とほとんど変わらなかった。新発田駅は昔のままである。懐かしさと寂しさが込み上げてきた。駅舎を出ると、真向かいに竹内旅館が目に入った-戦前、16連隊に入隊するための手続きがこの旅館で行っていた。
翌日、新発田駅前の第1ホテルを午前5時に起床し、駅に行ってみた。暫くすると、新潟駅5時02分発の酒田駅行(快速)きの列車が入線してきた。下車したのは3人程であった。5時27分発の列車のドア-閉まった。次の停車駅は坂町、到着時間は5時45分。終点の酒田駅には7時51分。駅舎を覗くと、駅長以下、朝礼が始まった-新発田駅の1日が始まる。7時台になると列車は通学専用化する-駅舎から出てくる顔・顔、夢多き高校生は明日に向けて学校へ向かう。
新発田駅
出典:「さいきの駅舎訪問」
散策
自転車で
初日は荷物をホテルに置き、駅前の新発田市観光局へ行き自転車を借りる。ママチャリは重く、速度も遅い。駅からの道を左折すると諏訪町(寺町)に入る。向かって、左右に約10家寺が並び静かな風情が広がり、急に心が安らぐ。
宝光寺
諏訪町の左側に先祖のお墓がある宝光寺である。新発田藩祖溝口秀勝公が開基した禅寺(曹洞宗)である。境内に入ると、正面に古びた歴史を感じる山門が目に入る。墓所は向かって右である。不規則に立ち並ぶお墓を探しながら先祖の墓に詣でた。大正12年(1923年)に筆者の祖父が建立したもので、既に100年余りが過ぎ墓石は黒ずんでいる。五十嵐家の多くの先祖が眠る。墓石正面に俱会一處(くえいっしょ)と刻まれている。
宝光山 山門
出典:「写真AC」
清水園
寺町通りを南に行き通りを渡ると、数分で右側に清水園、左側に足軽長屋が目に入る。清水園は新発田藩主の下屋敷として造られた庭園。純京都風回遊式庭園である。何といえぬ風情が庭内に漂う-建物は客棟造柿葺平屋敷建という。きわめて簡素な数寄屋風のこの建物は当時の下屋敷の面影を偲ぶことができるという。
この場所には、ほぼ20年前に初めて訪れている。今回の訪問で直観したのは、池の周りの樹々の植生が落ちており、精気がない。たまたま庭内の整備にあたっている年配の男性に話を聞いてみると、最近、樹々は元気がなく、中には枯れるものあると言いていたのが印象的でした-地球温暖化?の影響か気になる。
清水園
出典:「Things」
足軽長屋
足軽長屋は茅葺平屋建ての八軒長屋からは当時の質素な雰囲気が漂う住まいである。入口、お勝手、奥に4畳半の部屋がある-同様式は①「東京都江東区江戸資料館」(江東区深川江戸資料館<白河1丁目>)の町人長屋、②樋口一葉が住んでいた吉原の前の旧居「荒物雑貨・駄菓子屋」(下谷竜泉寺町368)長屋とよく似ている-この長屋から一葉は上野公園内の上野忍が丘(芸大)の西のすみにある「国際図書館」(現:国際子供図書館)まで歩いて約30分かけて友人の田中みの子さんと通った。
市立歴史図書館
新発田市立歴史図書館の方針は、「新発田市立図書館基本方針」に示されている。「郷土の歴史や文化を大切にする図書館」に基づき次のようなコンセプトで運営されているという。
- 未来に向けた新発田市の歴史の継承
- 新発田市の歴史や郷土についての学びと発表の場の整備
- 歴史に繋がるコミュニティと賑わいの創出である。
同図書館の特色は新発田藩(初代溝口秀勝~12代溝口直正)が転封せずに12代まで続いてことは-江戸時代の280の大名家(1万石以上)の中から言っても新発田藩の事例は特異な存在であった-「世臣譜/続世臣普」(先祖代々の主君に仕える家来の名前)等、多くの貴重な古文書を所蔵している。
藏春閣
新発田駅前の右側に大きな公園がある-その一角に新潟県立新発田病院がある。この広大な広場は大倉製糸工場の跡地であり、その一角に大倉喜八郎の胸像がある。同駅左側一角(新発田市諏訪町1東公園)に東京都墨田区の隅田川の河岸にあった大倉喜八郎の別邸「蔵春閣」(ぞうしゅんかく/墨田区堤通り1丁目1番地)が移築され、城のような重厚な存在感が印象的である。道路を隔てた正面には諏訪神社の鳥居があり大倉喜八郎が贈呈したものである。
大倉喜八郎(1837年<天保8>-1928年<昭和8年>享年92歳)とほぼ同時代(明治/大正/昭和)に日本の近代化の創設者渋沢栄一(1840年<天保11年>-1931年<昭和11年>享年91歳)と比肩される。明治・大正・昭和の偉人である。大倉喜八郎は江戸時代に越後国新発田町の商家の5人兄弟姉妹の3男に生まれている。幼名鶴吉-20代の頃、喜八郎に改名している-以下、蔵春閣の物語である。末尾に大倉喜八郎の年表を載せた(参照1)。
藏春閣物語
推移
蔵春閣(別邸)は明治45年・大正元年・(1912年)に向島に建てられた。33畳の大広間は豊臣秀吉が建てた桃山御殿の御成りの間を模したとされる豪華絢爛たる純日本風2階建てで、一部に成金趣味として不評を買ったが、感涙会(1908年<明治41年>)に喜八郎が政財界、文化会を問わず親交のある知人を別邸に招いて歓談した。
その後、藏春格は関東大震災、第2次世界大戦の東京大空襲に2度の災禍を逃れた1945年のGHQによる財閥が解体されたことで、大倉の手を離れて朝日興業から三井不動産の手に渡り、2012年同社から大倉文化財団に寄贈され、大成建設の手で解体し、喜八郎の出身地、新潟県新発田市に移築された。
蔵春閣
出典:「Wikipedia」
感涙会
1928年(昭和3年)4月8日、東京向島の大倉喜八郎の別邸の蔵春閣では恒例の感涙会が開かれた。感涙会は1908年(明治41年)に喜八郎が政財界、文化界を問わず親交のある知人を別邸に招いて歓談した。各自が随意に座興を披露するなどしてひと時を過ごしたのが始まりである。爾来、釈迦の誕生日の灌仏会(かんぶつえ)の4月8日に開かれるのが恒例となった。初回は30余名だった参加者はいつしか200人から300人を数えた。一流料亭の弁当は振舞われた。
参加者
第一回から喜八郎が亡くなった翌年に開かれた追悼のための感涙会までの参加者は以下の通り(筆者の選定)。
政財界:後藤新平(満鉄初代総裁/伊藤巳代治(農商務大臣)/山形有朋(首相)。
実業界:安田善次郎(安田財閥創始者)/根津嘉一郎(根津財閥創始者)/浅野総一郎(浅野財閥創始者)/益田孝(三井物産初代会長)/福沢桃介(大同電力創業者)中島久万吉(中島飛行機社長)/近藤廉平(日本郵船社長)/櫛田万蔵(三菱銀行会長/団琢磨(三井合名理事長)/山下亀三郎(山下汽船創始者)/高崎親章(日本製鋼所社長)/矢野恒太(第一生命保険社長)/門野重九郎(大倉組副頭取/横山孫一郎(帝国ホテル社長)/美濃部俊吉(朝鮮銀行総裁)/柳生一義(台湾銀行総裁)/内藤久寛(日本石油創業者)など-そうそうたる人物が参加している。
文化演劇会:幸田露伴(作家)/半井桃水(作家/樋口一葉の先生)片山東熊(建築家)/原保宏平(歌人)/松本幸四郎/尾上松助/守田勘彌(歌舞伎俳優)
日常
喜八郎の日常は、第一が仕事、第二が文学、第三が遊びを心掛けていた-事業活動は赤坂本部で、文人墨客との交遊、狂歌などの趣味や遊びは向島別邸で行われた。蔵春閣は明治期に建てられた現存する日本風大邸宅の数少ない一つで、また、伊藤博文らが私的な会合の場として、度々使用されていた。
エピロ-グ
新発田市の人口は流失しているという。確かに駅周辺を歩いてみると閑散としている。父に連れられて昭和30年代に新発田を訪れた時はこのような風景はなかったことを憶えている-日本の何処の街中でも同様である。この流れを食止めるのは至難の業である。反面、新発田市の郊外を走る7号線の両側に沿って多くのチエ-ン店があり、活況を呈している-他府県のナンバ-も多い。
蔵春閣の新発田市の移転は、今後、新発田城と同じく同市のシンボルとして位置付けられることになる-多くの市民の期待は大きいと聞いている。新発田市の活性化にとって千載一遇のチャンスでもある-著者はその感を強くする。筆者は年に数回、新発田を訪れる。実際、蔵春閣が一般公開(23年4月)するようなったら真っ先に訪れるつもりである。昔の感涙会で訪れた著名な政治家、経済人、文化人の思いの余韻を感じるためである。
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
引用史料
- 新発田市立歴史図書館とは-新発田市立歴史図書館
- 中嶋繁雄著「大名の日本地図」、文藝春秋、平成15年11月20日、第1刷発行
- 岡田和裕著「大倉喜八郎伝」-明治を食いつくした男-、発行・発売(株)潮書房光人新社、23頁-29頁
参照1
-大倉喜八郎略年譜-
- 1837年(天保8年)越後国新発田町の商家の5人兄弟姉妹の3男に生まれる(1歳)
- 1854年(安政元年)江戸へ出立。麻布飯倉の中川鰹節店で丁稚見習奉公(18歳)。
- 1857年(安政4年)江戸下谷上野町で乾物店を開業(21歳)。
- 1866年(慶応2年)乾物店を廃業。八丁掘の小泉屋鉄砲店に見習いに入る(30歳)。
- 1867年(慶応3年)鉄砲店大倉屋を神田泉橋通りに開業(31歳)。
- 1868年(慶応4年・明治元年)津軽藩からスペンセル銃の注文を受ける(32歳)。
- 1871年(明治4年)新橋停車場建設工事を請負う(35歳)。
- 1873年(明治6年)「岩倉使節団」とロ-マで岩倉、伊藤博文らと会食(37歳)。
- 1874年(明治7年)大倉組ロンドン支店を設置、日本企業初の海外支店(38歳)。
- 1874年(明治7年)陸軍用達として台湾出兵に従い商品購入に従事(38歳)。
- 1875年(明治8年)渋沢英一と東京商工会議所の肝煎に就任(39歳)。
- 1877年(明治10年)西南戦争で政府軍の陸軍用達となる(41歳)。
- 1880年(明治13年)朝鮮の元山埠頭(現北朝鮮)の建設工事に着手(44歳)。
- 1882年(明治15年)東京電燈会社の設立発起人の一人となる(46歳)。
- 1885年(明治18年)米国視察から帰国。東京瓦斯(東京ガス前身)を設立(49歳)。
- 1890年(明治23年)琵琶湖疎水、帝国ホテルが開業(54歳)。
- 1900年(明治33年)大倉商業学校(東京経済大学前進)、第1回入学式(64歳)。
- 1904年(明治37年)日露戦争勃発「いかなる犠牲を払っても軍に協力せよ(68歳)。
- 1907年(明治40年)帝国ホテル設立。帝国劇場設立(71歳)。
- 1912年(大正元年)蔵春閣竣工(76歳)。
- 1913年(大正2年)来日中の孫文、蔵春閣の晩餐会に出席(77歳)。
- 1916年(大正5年)喜八郎の寿像の除幕式が新発田で挙行(80歳)。
- 1920年(大正9年)大倉商業学校、大倉高等商業学校へ昇格(84歳)
- 1924年(大正13年)勲一等瑞宝章を授かる(88歳)
- 1925年(大正14年)満州、蒙古、華北旅行(89歳)。
- 1927年(昭和2年)大正天皇の殯宮の儀式に参列して、途中で卒倒(91歳)
- 1928年(昭和3年)勲1等旭日受章預かる。実業家としては初の受賞(92歳)
- 1928年(昭和3年)大腸がんと診断される。同4月死去(92歳)
(史料):岡田和裕著「大倉喜八郎伝」-明治を食いつくした男、発行・発売(株)潮書
房光人新社より作成。




