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20220321

幕末の多摩の女性の生涯(6)-総括-

プロローグ

多摩地域から将軍家大奥や江戸市中に武家屋敷に奉公した女性は、畑尚子氏によると、平成11年当時(1999)に紹介しただけで12名。後に同氏が著した『江戸奥女中物語』に登場する女姓を合わせると15名となる。すでにブログで記載した下師岡村(現青梅市)名主の吉野みち、千人町(現八王子市)野口とら、中藤村(現武蔵村山市)の渡辺よね、宮下村(現八王子市)荻島まさ、柴崎村(現立川市)鈴木つねである。

武蔵村山市
里山民家
出典:「狭山丘陵さんぽ

奉公の目的

良妻賢母

江戸時代、江戸城大奥や大名屋敷の奥では多くの女性が働いていた。そのような女性を奥女中と呼んでいる。家を出て、働くことを奉公に出るといった。奉公先には、武家・商家・農家があり、特に女性が武家に勤め出るのを奥奉公といった。

江戸時代の武家奉公の目的について畑 尚子氏の見解として-①裕福な町人や農民の娘にとって、武家奉公には高等教育の意味合いがあった。②この高等教育を経験した後、良縁を得て、子供を得ることが女性の幸福であることが、江戸時代の絵画史料にも描かれている、③武家奉公は一生続けるものでなく、結婚前の一時期に数年経験する、④結婚話しがまとまり、めでたく暇乞(いとまごい)する-などである。

教養

畑 尚子氏によると、「守貞謾稿」によると、宝暦期(1751-1764)、女子は7-8歳頃から三味線や浄瑠璃を学ぶことに熱心だった。それは歌舞音曲が武家屋敷へ、女中奉公へ行く娘たちの必須教養になっていたようである。武家奉公を経験したことで、彼女たちは良縁に結び付くという連鎖があった。

男性は自らの意思で自分の楽しみで音曲を習得したが、女性は両親に半ば“強制的”に武家奉公のために音曲を習っていた。守貞が述べたのは、江戸市中の住人について、近郊の農村でも同様な現象がみられたようである。両親の並々ならぬ娘の行き先のための配慮だったようである。

奉公の真価

115通

これまでに当ブログでは5人の奉公に出た女性を取りあげてきた。いずれの方も苦労し、自分の人生を掴み取った。その中でも吉野みちの生涯は波乱万丈の生き様を経験する。吉野みちの生涯(1808<文化5年>-1883<明治16年>)が「奉公人」としての真価を問われる人物ように思われる。

昭和59年(1984)から東京都教育委員会が3か年間調査した結果、115通のみちの手紙が発見された。みちがどのような生涯を歩んだことが伺い知れる。特徴的なのは親元への無心(金)である-何かにつけである。その都度、親はみちの欲望に応じた-ビロ-ドへの執念(是非欲しい)は興味深かった。

吉野みちの手紙を見ると、達筆である。思い出すのは樋口一葉(1872<明治5年>-1896<明治29年>)が青梅小学校(台東区不忍の池付近)にて、義務教育修了(小学4年)の際、母親から女性は手に職をつけなさいと言われ進学を諦める。一葉は厳しい生活環境(極貧)を切々と達筆で表現する(台東区立一葉記念館所蔵)。この二人の女性は、まさに幕末期から明治維新の時勢の中で強く生きた。

里山民家の北側にある水田
(岸田んぼ)
出典:「まち歩きで趣味探しと図書館めぐりを自転車で

孤軍奮闘

吉野みちは天保10年頃(32歳前後)、医学館出役素読教授・小石川養生所出役見習の田村元長と結婚する-みちは元長が亡くなるまでの7年間(弘化3年/1846)は、幸福で一杯であった。その後、田村家が没落を防ぐために、みちは昼夜兼行で奔走する。みちの苦労の集積がなかったら田村家は絶家していたであろう。みちは、明治16年(1883)亡くなる。

このような祖母に対して、孫の元登は、感謝と敬愛と情けをこめて「積善院釈淑貞大姉」の戒名と、「君性温良全婦徳」の諡号(しごう)を呈上している。浅草・真竜寺の先塋の傍らに葬られた。吉野みちは文政10年(1827)に青梅を出立して、明治16年(1883)に76歳亡くなるまでの56年間、帰郷を果たせなかった。

エピロ-グ

情報源

嘉永6年(1853年)のぺリ-来航から幕府の終焉まで、激動の幕末期の出来事を吉野みち、野口家の藤波は手紙で実家に伝えている。彼女の手紙は生家にとって重要な情報源であった。薪、炭、織物などの産物の取引を通じ江戸市中と経済的に密接な関係にあった多摩地域の人々は、江戸の出来事に“重大な関心”を持っていた(経済情報の重要性)。

第13代将軍徳川家定の死去(文中では大病といっている)を知らせる野口トラの手紙である-先ず、家定死後も奉公が続けられるか自分の身の上を心配する。すぐに死亡は公表されないが、この家定の死について、毒薬を盛られ病状が悪化(毒殺説)し、水戸、尾張、一橋、越前らが裏で糸を引いていたのではないかと、“内々の事情を洩らしている”-当時、大奥でこのような噂が拡がっていたことが窺える。渡辺つねが住んでいた武蔵村山中藤に住む陰陽師(おんみょうし)指田藤詮もまた、大事件は漏らさず記載「指田日記」していた。事件発生から間髪を入れずに情報が手元に届いていた。

真龍寺
出典:「猫の足あと

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

引用史料

  • 特別展「多摩の女姓の武家奉公」、会期>平成11年3月16日(火)~4月25日、江戸東京たてもの国
  • 畑 尚子著「江戸奥女中物語」、(株)講談社、2001年8月20日
  • 「江戸城・大奥の秘密」、(株)文藝春秋社、2008年9月15日、第2刷発行
  • 「青梅市史」<上巻>、青梅市史編さん委員会、青梅市、平成7年10月20日発行

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