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20211010

江戸時代の農民の生涯(4)-捨て子問題-

プロロ-グ

捨て子という言葉には、なんとも言えない響きがある。産みの親は腹(おなか)を痛めた子供であり、その子は捨てるには余ほどの覚悟と如何ともし難い問題があったためである。この悩ましい問題の背景には経済的・社会的な諸問題を含んでいる。歴史的にはすでに『日本書記』に記されている。

それによると-「676年(天武天皇5年)に今年は凶作であったため、子供を売る許可が欲しい」との要請を朝廷は許可しなかったが、15年後に「黙認する方針に変更した」と記載されている。子売り・子殺しの懲罰は757年の『養老律令』(参照1)に記載されており、親は百叩きで済んでいたという。以下、近世の「捨て子」問題に焦点をあて、当時の実情を報告する。

徳川綱吉
出典:「Wikipedia

生類憐み令

基本政策

江戸時代の「捨て子」に関する研究で大藤 修氏は(注1)-五代将軍・徳川綱吉が就任した17世紀末には都市部では捨て子が頻発し、社会問題化したので、綱吉は貞享4年(1687年)正月に発表した「生類憐み令」(参照2)の一環として、その対策に乗り出した。そこで、「生類憐みの令」(一、読み下し文/〇現代語訳)の捨て子の部分をみてみよう。

一、捨て子これ有り候はば、早速届けるに及ばす、その所の者いたはり置き、直に養ひ候か、または望みの者有り候はず、遣はすべく候。急度(きっと)付け届けるに及ばず候事

〇捨て子あればすぐさま届け出ようとせず。その場所の者いたわり、みずから養うか、または、のぞむ者がいればその養子とせよ。よいか、届け出なくてかまわない。

一、鳥類、畜類、人の疵(きず)付け候やう成るのは、唯今(ただいま)までの通り相届けるべく候。その友くひ、またはおのれと痛め煩ひ候ばかりにては届けるに及ばず候。随分養育致し、主(あるじ)これ有り候はば、返し申すべき事。

〇鳥類・畜類で、人が傷つけたと思われるのは今までのように届けよ、共食いやみずから傷つけたと思われるものは届け出なくてよい。それを養育し、持ち主があればかえすようにせよ。

発生原因

1696年(元禄9年)には捨て子の主たる発生源である店借(たながり)・地借層(じかり)(参照3)を対象に、妊婦と3歳以下の幼児の登録制を実施して、捨て子の防止を図っている点である。公権力の産育管理はまず都市細民層から着手した。捨て子の防止対策と養育の責任は町に負わされた。それを受けて京都では捨て子養育制度が成立した。

江戸時代後期になると、この問題を「京都・冷泉町」に伝わった「捨子関係文書」(冷泉町文書)に拠ると、都市社会で捨子が発生した場合には町奉行所は直接的な救済を行わなかった。町の責任で里親希望者を募集し、里親が見つかるまでは町での養育を義務付けている。里親は希望する理由が審議され、奉行所から許可されると請人や親分などの保証人をたて、遊女奉公へ出さいないことなどの誓約を取り決めた後に養子として引き取られている。

本質問題

沢山美果子氏は、同施策について以下の見解を述べている(注2)。「生類憐みの令」は、一般には犬愛護令として知られる。しかし、もともとは生類憐み令という単独の幕府法(幕法)が存在したわけではない。また、同令の本格的な開始を告げる貞享4年の幕府令(幕令)で対象とされたのは犬や牛馬などの動物はだけでなく、“病人や捨て子”も含まれていた。

同氏は、塚本学の『生類をめぐる政治』によれば、「生類あわれみは」の対象とされた生類とは、生産年齢にある男性を中心とする「ひと」から見ての「生類」であった。そのため、「ひと」のなかでも、特に、病人、乳幼児、入牢者などが、生類憐みに政策の対象としての位置付けを占めることになった。

同氏は貞享4年(1687年)正月の幕法は、捨て子の届出を命ずるものとして各地で伝達されたらしい。菅原憲二氏は、この幕府の法令が実際に京都の町中に触れられた貞享4年2月4日を境に、町奉行所には捨て子の届出が相次いだことを指摘している(「近世京都の町と捨て子」)。

政策強化

私領を含む全国規模の捨て子禁令は、元禄3年10月、同13年7月、同15年10月などに繰り返された(「御触寛保集成」)。私領での教育困難者の町村レベルでの届先まで、幕府が指定している。綱吉の政府は、全国の人民庇護者を自任したかにみえる。江戸町への法とみえるものではもっとも具体的で、元禄9年8・9月には捨て子が根絶しないことを指摘して、以後借家・借地人の妊産婦と3歳以下の子を、大屋・地主が承知しておくべき旨を触れた(「御触書寛保集成」)(注3)。

人別帳では幼児は除外されることが多かった時代に、妊産婦登録制度のような措置が命じられたのは、捨て子取り締まりの実をあげるためであった。『御仕置裁許帳』(おしおきさいきょちょう)で子捨て、とくに 養育料をとって子を引き受けて捨てる者には獄門・磔(はいつけ)の重罰に課した例も、貞享4年以後、多く見られる。「乳呑み子を養てほし殺し」という「人外なる手業」(「日本永代蔵」)は、とくに江戸のような町での捨て子の大きな事由(じゆう/原因・理由))となっていたのである。

農村事態

農村においても、近世前期には主人のもとから自立しつつあった譜代下人(ふだいけにん)が、逆に主人の庇護を受けられなくなったが故に子供を捨てた例がみられるし、また、飢饉時には捨て子が多く発生した。しかし、平時には都市部ほど問題化していない。

農村では家の形成が最下層まで進み、しかも小経営農民は家の存続のためにもあらかじめ産児制限をするようになっていたこと、加えて、都市よりも共同体の扶助が機能していた。近世後期には公権力も堕胎・間引きの禁圧(威力・権力によって圧迫禁止すること)に乗りだす。その政策下で、農村でも育児に窮した親が捨て子に走った事例がすくないことが、津山藩領を事例に沢山美果子氏によって明らかにされた(注4)。

鳥取城
出典:「城郭放浪記

鳥取藩事例

200年の記録

鳥取藩では、家老の業務日誌「家老日記」が作成されている。明暦元年(1655年)から明治に至るまでの200年余りの膨大な記録が残っている(鳥取博物館蔵)。その「家老日記」および鳥取藩領内の行政に関わる部署で作成された記録「在方諸事控」(ざいかたしょじひかえ)から捨て子に関する記事をまとめた(注5)。

家老日記

200年余りの記録の中で、捨て子の記事は71件あった。単純計算すると3年に1件発生している。捨て子はあまり多くなかったと思われる。しかし、後述するが、全ての捨て子について「家老日記」に記録されているとは限らないが、捨て子の件数はこれよりも多かった可能性がある。71件のうち、性別が判明するのは40件だが、男子と女子は20件ずつあり、捨て子には性別の差は見られない。

地域別

地域別にみると、全体的に鳥取城下の事例が多くみられる。農村部、特に現在の鳥取県中部・西部地域については18世紀後半にならないと記録されなかった。これは「家老日記」の掲載基準の違いにあるものと思われる。すなわち、以前は、農村部の捨て子は家老の分掌ではなく、そのため「家老日記」に掲載されなかったと、考えられる。

捨て子の年齢を見ると、18世紀前半までは「赤子」(=乳児)が多く、天保8~15年頃には2~4歳の乳児が目につくようになる。背景には、天保7、8(1836~37)年の飢饉により、子供が育てられなくなったことがあるのでないかと推測される。この動きは東北地方にも同様に見られる。

捨て子の対応

鳥取藩は捨て子への対応として、「家老日記」の中で以下のような文章がある。

『史料1 「家老日記」 天保10年6月13日日条

読み下し文

久米郡新田村へ、四歳ばかりの男子捨てこれに有るに付き、村方へ養育の儀申し付け置き候処、同村弥三郎と申す者、永代養育願い出候に付き、先例の通秋米三俵遣わさるの儀、郡代申し達し、承り届け候事。

現代語訳

天保10年6月、久米郡新田村(現倉吉市新田)に4歳くらいの男児が捨てられており、村へ男児の養育を申し付けておいたところ、同村の弥三郎という者がその養育願い出したので、先例の通り米3俵を弥三郎へ遣わしたという内容。この事例のように、捨て子はしばらく捨てられた村で養育され、引き取りに現れた場合、その者に養育米が渡されていた。

この養育米は、捨て子記事が「家老日記」に初めて現れる元禄6年(1693年)から見られるもので、その後、明治初年に至るまで行われていた。子を引き取る側の理由が書かれている史料は多くないが、実子がないこと、逆に授乳可能な女性が家にいることなどがある。人々はどのように理由で子を捨てえるのでしょうか。以下の事例は、捨て子の親が見つかり、子を捨てた理由が記されている数少ない事例です。

捨て子の原因

『史料2 「家老日記」享保11年4月24日条

読み下し文

佐久間甚左衛門家来今平と申す者、去る十五日法美郡宮下村に赤子を捨置申に付き、御郡方にて捕らえ置き、吟味致し候処、有体に白状申すに付き、去る十九日御目付共方へ、右の今平相渡し候様に、御郡方へ申し聞き、御目付方へ請け取り、尚又吟味致し候処、弥相これ無きに付き、入籠申し付け候、然れども、不勝手にて、養育致し候儀なり難く候故、捨て置き候はば、誰にても拾い養育致すべきやと存心底にて捨て候様に相聞き候に付き、いずれも相談の上にて、御国追放申し付け候、左の通、御目付共にて申し渡し候事。

現代語訳

鳥取藩士の佐久間甚左衛門の家来の今平という者が、享保11年(1726年)4月15日法美郡宮下村(現鳥取市国府町宮下)に赤子を捨てたということで、捕らえられます。藩の役人が取り調べたところ、今平は「不勝手」(暮らし向きが悪いこと)で子を養育できないため、捨て子にすれば誰かが拾って養育してくれるだろうという思いで捨てたのだと述べたということです。今平は子を捨てた罪により「御国追放」(=因幡国居住を許されず、ほう伯耆国へ住居地を限定すること)となっています。やはり捨て子の原因には貧困があること、また捨て子もいずれも誰かに養育してもらえるという考えが一般的に浸透していたことが伺えます。

総論

鳥取藩の捨て子事情をみると、天保7、8年の飢饉後に増えていることが確認できました。捨てられた子は引き取り手が現れるまでその村で養育され、養親には藩から養育米が支給されました。子を捨てる親の側にも、何れ誰かが養育してくれるという期待があって子を捨てている事情があったようです。これらの史料から“子供が社会全体で育てる”という当時の子育て観が伺えます。

エピロ-グ

町方が養育

5代将軍徳川綱吉は、犬をはじめ多くの生き物を大切にすることが生きがえであった(生類憐みの令)-犬公方とも呼ばれていた。その中に捨て子も重要な施策の一環であった。町奉行は直接に当たらず、町方に任せていた。

特に多くの捨て子が増えた天保7、8年の飢饉後、鳥取藩のように捨てられた子は引き取り手が現れるまでその村で養育された。養親には藩から“養育米が支給”された。子を捨てる親の側にも、何れ誰かが養育してくれるという期待があって子を捨てる事情があった。史料から“子供が社会全体で育てる”という当時の子育て観が伺える。

農村の悲哀

農村においても、近世前期には主人のもとから自立しつつあった譜代下人(ふだいけにん)が、逆に主人の庇護を受けられなくなったが故に子供を捨てた例がみられるし、また、飢饉時には捨て子が多く発生した。しかし、平時には都市部ほど問題化していない。また、鳥取藩の場合は農村部の捨て子は家老の分掌ではなく、そのため「家老日記」に掲載されなかったと考えられる。

背景には飢饉

捨て子の年齢を見ると、18世紀前半までは「赤子」(=乳児)が多く、天保8~15年頃には2~4歳の乳児が目につくようになる。背景には、天保7,8(1836~37)年の飢饉により、子供が育てられなくなったことがあるものでないかと推測される。この動きは東北地方にも同様に見られる。

現状

現在は、路上に遺棄(棄児)された子供が2013年~16年度の4年間に少なくも58人いて、うち10人が死亡していたことが、都道府県などへの朝日新聞の取材で分かった。多くが生後間もない赤ちゃん、遺棄した人物は判明したケ-スの7割は実母によるものであった。妊娠を家族に打ち明けられず、孤立した出産し、遺棄にいたったケ-スが多いと見られる(注6)。関連する動きとして、「現代の捨て子問題」として、熊本県の慈恵病院での「赤ちゃんポスト」(正式名称・こうのとりゆりかご)をめぐる事実が一時話題となり、時代を経ても様々な形で遺棄されることが分かった。

但し、遺棄される背景が時代に違いがある。近世は飢饉によるもので、現在は極めて個人の事情によるものである。何れにしても幼い生命が簡単に奪われるのは悲しい。残念ながらこの動きは今後も変わりはないが、そうは思いたくない!

(グローバリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)大藤 修「近世人のライフスタイル」、山川出版社、2017年11月30日、16-17頁

(2)沢山美果子「江戸の捨て子たち」-その肖像-、吉川弘文館、2016年(平成28年)4月1日、18-19頁

(3)塚本 学「徳川綱吉」、吉川弘文館、2013年5月1日、126頁-127頁

(4)(注1)と同じ。36頁

(5)「江戸時代の捨て子」、第5回鳥取県史だより。平成26年12月

(6)「朝日新聞」2017年9月3日

参照

(1)『養老律令』

古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令は10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。

(2)「生類憐みの令」

第5代将軍・徳川綱吉が実施した。生類憐れの趣旨を掲げた一連の政策の総称で、その対象は人のみならず、鳥獣・魚類にいたるまで生類全般に及ぶ。

(3)「店借」(たながり)

町方住民のうち借家人を「店貸」/「地借」(じがり):土地を借りて家屋は自費で建てているものを「地借」と称した。

参考資料

ウイキペディア

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