20211120
江戸時代の農民の生涯(7)-離縁の実態-
プロロ-グ
結婚は人生の新たな門出である。将来の行方について誰も分からない。が、夫婦の仲が、諸般の事情により崩れ、双方は離縁(離婚)する局面に立たされる。この点に関して、現代も変らない。では、主に近世には具体的にどのような手段をもって、主に男性側からの離縁の要求がなされたのか。
江戸時代の離縁の手段として、男性側が一方的に三下り半(三行半の文章・離縁状)を女性に渡して、離縁は成立した。男性優位の時代に女性は常に弱い立場に立たされていたことは衆目の一致するところですが、実際はどうであったのか。以下、近世の離縁事情について調べた。
江戸時代の結婚式
出典:「江戸ガイド『三定例之内婚礼之図』歌川国芳 画」
離縁の経緯
幕府法
「近世人のライフサイクル」の著者大藤 修氏によると(注1)、離婚は近世には離縁・離別と称している。武家の場合は、夫婦両家の当主から「双方熟談の上」離縁する旨を記した届書を幕府もしくは主君に提出し、受理されることにより成立した。反面、庶民の離縁では、嫁入り・婿入りを問わず、夫から妻に離縁状を渡し、妻がそれを受理することは幕府法上の要件とされていた。
高山陣屋
出典:「写真AC」
見解相違
離縁状の授受があって初めて双方共に再婚が可能となり、それなくして再婚すれば“重婚罪”となり、男は所払いに処され、女は髪を剃って親元返された。離縁状は夫から妻へ交付するという形式をとることから、庶民の結婚は夫の意のままに行われる夫“専権離縁”であったという見解が、かっては、通説とされた。
これに対して高木侃氏(あきら)は-庶民の離縁事例を多数検討し、実態におい夫の恣意的な離縁権の発動は社会的に抑制され、多くは夫婦および両家の協議による熟談離縁であったという新たな見解が提示されている。近世の離縁の基本形態は熟談離縁であったとしても、夫婦および両家が対等な立場で協議していたかどうか問題となる。
離縁率
近世における今日と比べて離縁率が高かったことが明らかにされている。その理由の一つは、家や親類の都合によって離縁される場合が多かったことによる。事例として、夫婦仲がよくても、嫁あるいは婿が家・親類によって好ましくない人物と判断されれば、強制的に離縁させられる場合もあった。また、離縁しても実家に帰れば扶養してもらえたし、離縁の多さと表裏をなして、家の存続の必要上から再婚の口も多かったことも、離縁を容易にしていた。
離婚実態
森 安彦著「古文書から見る近世人の一生」によると(注2)、初婚での離縁は15件、結婚から離縁までの平均年齢は約7年。概ね20歳から27歳までに離縁している。結婚期間の最も短い時間ケ-スは9カ月だった。これは、せっかく結婚したけれども、妻の実家は10歳ぐらいの弟が1人だけとなってしまい、両親はいない。これでは家が潰れてしまうとして離縁、実家に戻ってきて、小さな弟を教育して20歳ぐらいまで育てた。
一方、離縁までの期間が最も長いのは18年。10代の離縁が2件、20代が8件、30代が5件、それらから、離縁の際の子どもの処遇ですが、嫁ぎ先の夫の家に子供を置いた事例が4件、妻が引きっ取った事例は2件ある。倅は夫に、娘は妻にと、両方で分けたケースもありまった。この場合は3年後に復縁しています。「子はかすがい」で、やはり子どものためにまた一緒になろうとなったのでしょう。
諸因
離縁の理由として、まず婚家ないし実家の窮乏によるものがある。結婚したのだが、非常に貧しくて、共に生活していけない。夫が大半は住み込みで、どこかで働いている。また、妻も住み込みで働いている。それでは互いに結婚している実態がないものであるから離縁してしまうケ-スである。現代から考えると、これが結婚かと疑ってしまう。
結婚の次の理由は、子どもが生まれない理由である。文書には書かれていないが、家族構成を見ると、離縁15件内、なんと8件が、子どもがいない事例であった。だが、子供がいなくとも、ずっと婚姻関係を続けている夫婦がいた。そのため家が存続できないという疑問です。養子をもらったり、もらわないで、生涯、夫婦だけという家もあります。夫婦が共に死亡してしまうと、別の人が入ってきて、名跡(みょうせき)を継ぎ、絶家しないようなシステムが機能していた。離縁後の妻の生活は一旦実家に戻り、それから再婚するなり、奉公にでます。離縁した女性の再婚先は、比較的、江戸の町方が多かったようです、或いは武士の妾、或いは“遊女奉公”に出る人もいたようです。
三下り半
離縁の時、亭主は三下り半(三行半/古文書)を直筆で書き妻宛てにわずか3行半で書きました-そこには2つの事が記されています。1つは再婚の自由を認める。それゆえ、離縁状では、離縁の自由が再婚の妨げにならないように、漠然とした表現を使う場合が多かった-事例ですが、「我等勝手ニ付」(われなど勝手につき)などである。その点の離縁状は、「そこもと義われらの心底に応ぜず」(あなたは私の心に応えない、すなわち意に従わない)と比較的明確に離縁理由を示しています。
離縁するには離縁状が必要でした-発行しないと、離縁は不成立でした。離縁状を書かないで、結婚すると、重婚罪に問われます。これは重罪でした。近世前の元禄時代までは死罪でした。その後、享保期になると軽減されて、家財没収による所払(追放)となりました。そこで、以下に離縁状を紹介致します。
離縁状之事
此度其元望ニ付いとま差遣候
然ル上ハ、何方ヨリ縁組仕候共此方ヨリ
申分無御座候、為後日一札差上
申処依而件如
天保3年5月 幸一爪印
おそで殿
この度そこもとのぞみつきいとまさしつかわし候、
しかるうえはいずれ方より縁組つかまつりそうろう
とも このかたより申し分ご座候、後日のために一
札差し上げ申すところ、よって件の如し。
出所)セミナ-原典を読む(4)
森 安彦著「古文書が語る近世村人の一生」
1994年8月25日。104~105頁
ここでは後日、何れの方へ縁組してもこちらから言うことは何もないと記しています。
通説への反論
「小金井市史」-通史編-によると(注)、女姓が家にける自らの待遇に不満をもった場合の対処法を考えると、家出のような非合法な方法ではなく、合法的な方法についてである。単純に考えると離縁である。近年の研究では江戸時代の離縁は、女性が男の意向によって、ただ一方的に離縁されるわけではないことが判明している。また、女性から離縁が切り出せないわけではないことも明らかである。
所々事例
その事例として、万延元年(1860年)6月、貫井村時次郎の姉つるが松ヶ岡御役所(鎌倉東慶寺)に駆け込み、「離縁御寺法」、つまり離縁を願っていると。東慶寺への駆け込みは広く認められていた現象であり、離縁自体は江戸時代ではさほど珍しい現象ではない。
東慶寺 山門
出典:「izumi-loc 鎌倉と(旧)鎌倉郡 の 歴史 をたずねて」
離縁について関野新田の<かの>をめぐるライフヒストリ-である。<かの>の父親は三之助といい、母親は<かの>出世後離縁している。この三之助は身持ちが悪く、天保年間に「除籍」、つまり無宿者になったのである。このため、かのは三之助の姉ますが育てた。そのますのところに小川村(小平市)菊次郎とかのとの縁談が持ち込まれた。かのは、親類が納得した上で菊次郎のところに嫁にいった。しかし、しばらくすると、菊次郎はどこかに行ってしまい、かのは、所々の厄介になった。
この、かの事例を見ると、いかに家を継承して守っていくことが困難なことか実感できる。男たちは身持ちが悪く、どこかへいってしまう。それは一つには生活が奢侈(しゃし)になっているかである。男は不在の時、家を守のるは、親類と女性である。ただ、その女性の地位も安定したものではなかった。
流転人生
下小金井の<なよ>の事例を見てみよう。文久2年(1862)、なよの旦那の弥吉が亡くなり、なよは駆け落ちしてしまう。尋ねても探すこともできず、なよは、人別帳から除外(無宿)されてしまう。なよは、突然帰ってきた。なよは上小金井村の長吉を通じて村役人と弥吉の父弥五左衛門に詫びを入れた。なよによれば弥吉の死に悲嘆し、そのため「坂東西国札所霊場巡拝」をしようと志した。しかし、弥五左衛門、なよの実家も承知していなかった-無断で、出かけたとうのである。
しかし、途中で上小金井無宿の安五郎と行き会い、彼も巡礼に行きたいという思いがあったので、二人で巡礼に出かけたという。途中、新潟で長患いになり、路銀(旅費)が尽き、衣類を売り払い、日雇い稼ぎで暮らした。思わず月日が経ってしまい、故郷が懐かしくなり、帰ってきた。安五郎とは府中で別れたという。安五郎に聞いてみると、後家を連れて歩いたことはまったく申し分けないとし、<なよ>には執心がないという。人生様々である。その後のなよの情報はない。
エピロ-グ
近世の離縁問題は幕藩体制の体制上の縛りがあった。その中での新しい門出は人間としての喜びは、現代人と同様であった。幕末になると、薄れる士農工商の階級分化の中での結婚生活はどのようなものであったかを見極めるための史料収集はより多く必要である。
離縁は三下り半で済む男性優位の社会であった。時には遊女奉公に身を落とさなければならなかった人生もあった。幕末から150年過ぎた今日、新型コロナ下において離婚した女性は養育費も入らず、塗炭の苦しみの中にいる女性の話がメディアから伝わってくる。
先日、報告者は居住する武蔵野市の出先へ出かけて、現代人が離婚する際の手続きを知るために離婚届を貰った。係員は離婚する際の条件により6通りの離婚届があると言われた。現代人も離婚する際には双方の身分上の保証を確保するために行政が法律に則った書式を揃えている。結婚は一生の一大事、離婚も人生の一大事である-歴史は新しい時を刻んでいる。
(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹
(注)
(1)大藤 修著「近世村のライフサイクル」山川出版社、2017年1月30日、1版6刷発行、68-68頁
(2)森 安彦著セミナ-「原典を読む」(4)「古文書が語る近世村人の人生」-婚姻の諸相-、88-89頁
(3)「小金井市史」-通史編-、小金井市史編さん委員会、小金井市、平成31年(2019年)3月29日、282-283頁
参考資料
速水 融著「江戸の農民生活史」-宗門改帳にみる濃尾の一農村、日本放送出版会、昭和63年7月20日 第1刷発行



