20210918
江戸時代の農民の生涯(2)-家と財産-
プロロ-グ
「慶安御触書」(参照1)は、農民がぜいたくをして没落するのをふせぐために日常生活にまできびしい制限をしていた。士・農・工・商の身分制度は、幕藩体制の支配を維持し強固にするために、社会秩序を固定するためのものであった。この支配構造は260年の長きにわたって続いた。
幕藩体制を政治・経済的に支えていたのは“石高経済”であり、それを支えていたのは農民であった。先日96歳で亡くなった歴史学者色川大吉さんは民衆に光を当てた著述でも知られ、英雄や偉人、政治家らを追った歴史記述を-そんなの上澄みじゃないか-と言い放った。以下、当時の農民の<家>と<財産>について、考えてみた。
色川大吉さん
出典「朝日新聞デジタル」
家屋
普請見舞
江戸時代は通常、百姓が勝手に門などを造ることは許されず領主の許可が必要であった。許可なく門などを造れば村内の身分秩序に反する行動であった。家格の低い家が経済的に豊かになり、門などこしらえ、訴えられるという事例はしばしば確認できる。法令で危惧したように分家が門をこしらえ、本家と対立するということも考えられる。
このような家屋は身分を表象するものとして社会位置付いていた。この点を顕著に示すのが普請見舞(家を建築したことに対する経済援助)と家見(新築した住居を親しい人に見せる行事)であろう。文政5年(1822年)の事例を紹介すると、下小金井村の大久保家が家の建築を行った時の史料が残されている。
家見覚書
米が普通
同村の他、上小金井・梶野・貫井村などの周辺の村人も含めて53名が普請見舞として物品を贈与した。物品とは酒1~2升、縄5~20房、桶竹1把、茅2駄、茶1笊、小手縄10~20房などである。酒は祝儀には一般的なものであり、縄は農家が藁(わら)を縒り合わせて作る夜なべ仕事の代表的な物であった。
大久保家11月27日に家見を行った。「家見覚書」をみると、家見の祝儀は前月の10月から翌年の正月まで29名が米などを届けている。持ち寄った物はほとんどが米で1升から2升が普通であった。中には高価な鰹節(2人)、銭200文(1人)・酒1升(2人)するものもいた。
財産内容
武蔵小金井駅
出典「Wikipedia」
17両3分
江戸時代は平穏な時代であった。庶民の生活においても必要な家財道具は増えている。事例をみると、嘉永2年(1849年)2月27日、関野新田において百姓が没落し、家財・財産が入札にかけられた。ここで処分された物品は実に112品もあった。金額の総額は17両3分弐朱ト銭653文。「家」そのものは梶野新田の勘次郎が6両で落札した。その他は「仏段(壇)」(2朱ト銭400文)などの宗教的なものもあった。
生活雑貨
目立つのは生活雑貨である-「ゆとう」(湯桶)・「ほうろく」(焙烙)・「たばこぼん」(煙草盆)・「硯箱」・「火鉢」・「机」などが書き出されている。いずれも高価なものではないが、生活雑貨が充実していることがわかる。この処分の対象になった家がどのような家かは判断できないが、経済的には豊かな家であったと思われ、江戸時代の百姓はそれなりの家財道具をもっていた。
盗難
物持ち
万延元年(1860年)9月25日、上小金井村の百姓増五郎の家に盗賊が入った。増五郎の持高は10石余なので中程度の百姓であろう。盗られものは1尺3寸で鞘は黒塗、柄は鮫黒糸巻拵(こしらえ)脇差1腰、花色木綿の女袷(あわせ)1つ、風呂敷1つであった。
文久2年(1862年)4月5日、上小金井村の百姓九兵衛宅に盗賊に入られた。久兵衛の持ち高は10石なので上層豊民とはいえないであろう。取られた物はまとめてみると、女綿入半纏(はんてん)2点、女袷2点、女綿入羽織2点、女古綿入れ1点、男帷子(からぴら)1点、女帯1点、女小立綿入れ1点である。その他「茜木綿・晒木綿手拭地・絞り切地類」が取り混ぜて30反程と「売溜銭」(うりだめぜに/売り上げた銭のたまったもの)がおよそ1点である。
脇差
この衣類の多さに驚く。これは九兵衛が「荒物小切類」の商売をしていたからである。この点からも幕末期に衣料は民衆に幅広く浸透していたといえよう。また、盗難品を売ることが可能で、衣料市場が機能していたことがいえる。また、両家とも脇差が盗難にあって興味深い。江戸時代に脇差が庶民に広く普及していたことはすでに藤木久志の指摘がある(『刀狩り』)。脇差の所持は禁じられてはいなかった。
相続
新田開発
家の相続は当主の隠居または死亡を契機とする。東北・北陸地方では隠居慣行が形成されておらず、
死に譲りが一般的であった。誰が家を継いだのであろうか。幕府や諸藩の法制は長男子相続を建前にしているが、その杓子定規(しゃくしじょうぎ)な厳守をおしつけていない。領主の関心はあくまで貢租の源泉である百姓の家の維持にあった。従って、農民の家の相続の在り方は各地域の慣行にゆだねていた。
開発面からみると、江戸時代では17世紀になると、開発が進捗し、耕地が増えて、百姓の家では分家するものが多くなった。18世紀には開発も一段落して、長男(長子)の単独相続が一般化したとされる。相続形態は地域よって異なり、姉家督(性別に関係なく早く生まれた者に家督を継がされる)と末子相続(分割相続)が一般的となった。小金井の村は18世紀の初めに武蔵野新田が開発され、以後、大規模開発は見られなくなり、19世紀には長子単独相続が一般化したといえる。
財産分与
しかし、分家の事例もあった。嘉永3年(1850年)10月、梶野新田のある家では弟の分家に対する財産分与が、父親の思いに叶わず問題になっている。「近所親類」が相談し、この上兄綱吉に不取締があったなら、夫々畑株を兄弟で分けることが示されている。この史料は兄綱吉と「本家代兼親類」為五郎が「御親父様」に出したものである。
相続にあたっては本家を頂点とした親類が大きく関与していることが判明する。また、相談にあたっては「近所」も影響力を行使している。機械的に長子単独相続が行われたわけではなく、場合によっては弟へ分割も行われたのである。
次男以下
東小金井駅
出典「Wikipedia」
しかし、次男以下はどのような状態だったのか。天保10年(1839年)7月の「関野新田旦右衛門婿養子取証文」、関野新田の旦右衛門は勝右衛門という人物を婿養子に迎えている。引請証人(保証人)は等々力村(世田谷区)の市左衛門・与市。男子がいない場合娘に婿を取って継がせることは江戸時代には珍しいことではなかった。
跡相続
では、娘もいない場合はどのようなるのであろうか。万延元年(1860年)4月、上小金井新田の要介は6石3斗8升3合の田畑を持っていたが、老衰を迎え、相続人にもいなかった。そこで、跡相続人が決まるまで田畑を上小金井の村役人に預けるという手段を取った。
このことは要助と彼の組合惣代・親類惣代、それに要助孫婿喜太郎が村役人に誓っている。喜太郎は年貢諸役と諸付き合いを引き受けている。それならば喜太郎が跡を継げば簡単のような気もするが、組合・親類と村役人の合意が必要だったのである。このように要助のような一家の筆頭者といえども田畑、つまり家を相続させることは難しかったことを窺わせる。
エピローグ
普遍
人間は生存するには衣・食・住が必要である。それを維持・継続するにはお金が必要である-どの時代に生きる者として、共通の話題となる。老境に入ると、終活を求められる。現在の人々も同様の問題に直面する。この問題は人間にとってエンドレスなテ-マといえる。
人生50年
江戸時代の平均寿命は50歳である。現代人より30年も短かった(参照2)。どちらの人生が幸福だったか?は一概に比較できない。但し、近世の農民は、現代人よりも生き生きとしていた。人間の生きるための自然環境が整っていた。最近の若者は、自分の家を購入するには80歳までの住宅ロ-ン(頭金なし)を組む必要があることを聞いた。家・財産とは何かと考えてしまう。
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
引用資料
- 田中圭一著「百姓の時代」、築摩書房、2001年11月20日
- 「小金井市史」-通史編-編小金井市史編さん委員会、平成31年3月29日
- 大藤 修著「近世村人のライフサイクル」、日本史リブレット39、山川出版社、2017年11月30日、1版6刷
- 渡辺 尚著「百姓たちの幕末維新」、草思社、2017年4月10日、第1刷発行
- 「東京新聞」<コラム・筆洗>2021年9月10日
参照
(1)「慶安御触書」は、慶安2年(1649年)に幕府が農民統制ために発令された幕法とされている文書であるとされてきたが、慶安2年当時の原本が見つからない事などからその存在が論議されるようになった。この原文は文政13年(1830年)に美濃岩村藩(現岐阜県恵那市岩村町)によって板行された御触書(一部分)で、百姓に対して贅沢を戒め、農業など家業に精を出すように求めた内容である。以下、一部分。
原文
1公儀御法度を恐れ、地頭代官の事をおろそかに存ぜず、扨又名主組頭をば真の親とおもふべき事。
1名主組頭を仕る者、地頭代官之事を大切に存じ、年貢を能済し、公儀御法度を背かず、小百姓身もち能仕るようやうに申渡すべし、扨又手前の身上ならず、萬不作法に候へバ、小百姓に公儀御用の事申付候ても、あなどり用ひざるものに候間、身持をよく致し、不弁仕らざるやうに常々心がけ申しべき事
口語訳
1幕府をおそれ敬い、地頭代官の事を大切にし、さてまた、名主や組頭を真の親と思いなさい。
1名主組頭の者は、地頭代官の事を大切に思い、年貢をきちんと納入し、幕府に背かず。小百姓の生活をよくしていくようにしなさい。さてまた、自身の身の上がきちんとしておらず、すべてにおいて不作法であれば、小百姓に幕府の用務申し付けても、あなどられ命令を聞かないので、日頃からくらし方に気をつけ、困らないようにいつも心がけなさい。
(2)最近の報道によると、2019年の100歳以上高齢者が7万人を突破、そのうちが88.1%を女性が占める-日本の長寿化は女性がけん引!最高齢者は福岡市在住の田中カ子(かね)さん117歳(1904年生/明治37年生/日露戦争勃発)である。報告者の祖父が19歳の時に生まれている。



