20220116
幕末の多摩の女性の生涯(1)-吉野みち-
プロローグ
吉野みち(文化5年)<1808>-(明治16年)<1883>は、青梅市師岡(もろおか)の名主・吉野家8代目吉野千右衛門の娘として文化5年(1808)に生まれた(参照1)。母は、きの。兄に慶蔵(のちの慶五郎、または啓五郎)がいたが、天保9年(1838)、当時の幕閣の最高位にいた老中井伊掃部頭直亮へ、直訴(駕籠訴)を敢行した(参照2)。
吉野みちは20歳になった文政10年(1827年)に御殿女中に上がった。御殿女中と草深い「青梅」とは、全くかけ離れすぎた存在に思えるが、地元の史料を調べると、青梅周辺を含む多摩各地から数多くの娘たちが江戸城はじめ諸大名の御屋敷に上がっている。
みちも手紙の中で本丸から父母あてに、女中を探してくれないかとの依頼をしている。天保9年(1838)、31歳になったみちは縁あって小石川養生所医師に嫁している。以下の報告は、青梅市史」(上巻)に記述されている史料を引用し、吉野みちの波乱の人生の事跡を追い、吉野みちの生涯に追った。
青梅駅舎
出典:「Wikipedia」
みちの歩み
吉野家文書
青梅市師岡の名主吉野家は戦国時代、忍城主成田氏の家臣で、落城後、青梅の師岡村(もろおか)に土着し、江戸初期、新町村を開拓した吉野織部之助を祖とする由緒ある家柄である。昭和59年から3カ年間、東京都教育委員会が調査した吉野家文書の史料群の中から、従来ほとんど見られなかった1女性の生涯を窺い知ることできる手紙類が115通まとまって発見された。
手紙は吉野みちという草深い田舎の名主の娘が江戸城本丸に登り、御殿女中と勤仕し、後に縁あって小石川養生所に医師(4代目田村元長)に嫁し、やがて幾多の艱難を乗り越えた。この嫁ぎ先の医家は、有名な本草学者(参照3)であり、幕府医学館教授でもあった田村籃水や西湖(籃水の嫡子)の生家である。
手紙の宛名はほとんどが「おともじ様」、「おかもじ様」となっていて、みちが、父・千右衛門、母・「その」に宛てたもので、江戸の御殿から、後年には、嫁ぎ先本郷・田村家から実家の師岡村へ差し出したものである。みちの手紙の分量は多く、娘の心情や里方との交流、婚家での暮らしぶりが、実に柔らかみのある文章で綴られている。みちの手紙は『御殿女中吉野みち』(「青梅市史史料集」/115通/第40号・平成3年)にまとめられている。
多摩の女性
吉野みちの他に地元の史料を調べると、青梅周辺を含む多摩地区から多くの娘が江戸城をはじめ諸大名のお屋敷へ御奉公に上がっていることが判る。みちも手紙の中で、江戸の人は役立たないので、女中は遠国者(青梅)に限ると述べている。さらにみちの手紙から新町村名主・吉野家の妹おと代、分家の「おこう」、その妹の「いよ」、新町村の「おぶん」などが御奉公に上がっていることが確認できる。
青梅・森下出身の文人山田早苗の姉「ます」は酒井石見守の屋敷に奉公していたし、早苗本人の妻「なか」(青梅宿出身)は、江戸城本丸上﨟花町局に奉公していた者で、「なか」が産後病で没すると、尾張徳川家に御殿勤めをしていた「加代」(江戸神田出身)を娶っている。
大奥の女性
大奥女性の分限(身分)は、筆頭は上臈年寄で公卿の子女が当たり、つぎが御年寄(10人扶持)である。実権を持たない上﨟に較べ、御年寄は多くを支配する最高級の女中であった。表向きの女中は老中に匹敵、俗に10万石の格式と言われている。以下、小上臈、御客会釈(あしらい)、御中﨟、御定口(おじょうぐち)、表使、御坊主、御小姓、御次、御右筆、御切手、呉服之間、御広敷(おしろしき)、御三之間、御仲居、火の番、御使番、御末(おすえ)といったもので、実に19種類の職制がある。
百姓出身は
このうち御三之間以上が御目見(おめみえ)以上で、御仲居から下は御目見以下であった。以上が「直(じき)の奉公人」といわれるもので、これら奥女中に採用される者は、旗本・御家人の娘、それもお側近くに務める御小姓の娘が多かったという。従って、町人や百姓の娘は、「直の奉公人」になることはできず、これら奥女中が与えられた自分の部屋々々で使役する部屋方(又者)として務めた。みちの御殿で使っていた名は「はぎ」であった。
この又物と呼ばれる部屋方にも、御犬、御局、合の間、たもん、および小僧などの別であった。みちが欲しがったのは、このたもんである。「小僧」は雑役、「たもん」は水汲・飯炊き、「合いの間」は女主人の傍らで働く、俗にいう仲働き、「お局」は部屋の取締と賄一切などがその仕事である。およそ豪華絢爛たる大奥絵巻たる大奥絵巻とは程遠い、「着類なども木綿にてよろしく何も支度は入り申さず、当人身を(が)大きく、水などよく汲み候らへばよろしく」いった程度であった。
大奥の内面
大奥の中身を見ると、「直の奉公人」だけでも弘化3年(1846)の記録では469人、慶応元年(1865)、411人であったというから、これに「直の奉公人」たちがそれぞれ、平均すれば数人ずつ部屋々々で「又者」を使っていたのであるから、それらを含めるとの大奥の御女中の総勢は「3000人」であったという。このように大奥は「直の奉公人」に数倍する町家、百姓家といった民間から使用人が必要であり、さらには江戸には300諸侯の江戸屋敷があって、そこでも民間から奉公人を多数としていたから、江戸中の需要は相当数になったのである。しかも江戸市中の町屋、商家の娘より、丈夫な働き者が、江戸周辺の多摩地域などから多くの御殿奉公人の需要があった。
大奥の勤め
みちが御殿奉公に上がったのは、20歳の文政10年(1827)頃と思われる。みちが吉野家の宗門人別帳から消えるのは天保10年(1839)から弘化元年(1844)までの6年間である。この間、残念ながら人別帳が欠失していて確認できない。人別帳の天保9年には「みち31歳」の記載があり、弘化元年には37歳になっているはずである。みちの手紙に「もはや御殿部屋に11年もつとめており」、「もはや30の上にも相成」、身の振り方を相談しているが、みちの31、2歳という天保9、10年に当たる。また、天保13年8月16日、新町村吉野家7代目・当主文右衛門は亡くなっている。みちは早速、お悔やみ状を“田村みち”の名で出しているので田村家に嫁していることが判る。
御三卿
みちは、手紙の内容から本丸、一橋家と三か所に務めている。青梅地方には田安家の領地があったわけではない。おそらく先輩の御殿女中ひきによったものであろう。その田安家から本丸へ、さらには一橋家へと「引移り」はどのような経緯で行われたのか。その背景には、幕府と尾張・紀伊・水戸との関係は時代と共に関係が薄くなったので、第8代将軍・吉宗の第2子宗武に田安家を、第4子を宗尹に一橋家、9代将軍家重の第2子重好に清水家を継がせた。いわゆる御三卿と呼ばれるもので、江戸城内にそれぞれ邸宅を与えられた。但し、領地は与えられず、10万石給付され、幕府の役人が実務を取り仕切った。
将軍家と御三卿の間には交流があり、事例として田安家の姫が一橋家へ輿入れした場合、御付きの大勢の御女中は姫について一橋家へ移動したのである。みちの手紙には「当暮は御引き移りも御座候間、さきへより候えば殊の外せあわしく存じ候」とか、「御引移り年故なおなお御用多く・・・」とか、「扨ては、御引移りも作11月、御すらくと相済、御供いたし・・・」などという一節が書き込まれている。これらによって、みちのひき移りの年代は明らかではないが、説明できる。
無心
大奥は3000人の女性が生活をしていた。みちの手紙は大奥の実態を知るうえで貴重な歴史的史料である。みちは親宛ての手紙には頻繁に金子(小遣い)を無心している内容のものが多い。大奥は女性の世界であるので、衣類へのこだわりは大変強く、当然、衣類への支出は多かった。また、みちは送金を求めることだけでなく、父親払いで物品を購入することも稀ではなかった。以下、その一例(原文)を紹介する。
扨々(さてさて)申かね候らへ共、私事心やすき人上方へびろうど(ビロ-ド)の帯付きまことにまことに直段(値段)かつ柄物よろしく、此方にて好み通りにてよろしくとの御事故(おことゆえ)又と申し候てもよき便り、又と申し入れてもよき便り、御座なく候と存、壱すじあつらへまいいらせ候、御そう(相)たん(談)いたし、其上と存じ候らへ共いなか迄御相談に上り候うちにもはや此のかたにては上へ注文書き遣わし候事、ついついりょうけん(了見)にてたのみ申し、何共恐れ入りまいらせ候、当月2日に出来参り候らへ共、代り(代金)にまことにまことに差支え候事。色々くろう様の御なか、山々御気の毒様に存じ候らへ共、なにとぞ々半金戴きたく御願申しあげまいらせ候。半金は私事、度々の御仕着物代(現金)にて戴き、それを道しまいらせ候。右の通り好み通り注文致し候て、定紋付にて3両2分1朱に御座候所1両2分2朱は私より遺し候。跡の所(残りの分)を御願申しあげいらせ候・・・(みちの手紙史料2)以下、解説である。
文政10年(1827)6月2日、江戸の奉公先でしたためたものである。みちの手紙(1部)である。内容は娘から父親への無心である。いじらしほどの娘心を切々たる筆に託して手紙である。みちは、田舎暮らしのではおそらく見ることができない夢のような船来もののビロード地を見せられて、どうしても手に入れたいと思った。手触りと言い光沢といい、青梅縞の木綿育ちの女には全く経験のない感触である。このような帯を締めてみたい。
この機を逃したら、いつまた買うことできるだろう。手紙には「おまへ様が山々御苦労遊ばして」いることは重々承知しているつもりであるが、「(この帯は)まことに直段(値段)、かつ柄物よろしく、(私の)好み通り」のものであるので、「御相談も」せず「ついつい(私一人の)了見にて頼み申し、何共恐れ入る」次第である。と述べ、しかしながら私は、「人(他の朋輩)のやうに無益に使い捨て」のように無益に使い捨てなぞは致し申さず、(帯地)みなみな残り候品」である。と弁解し、娘心と親思う心をないまぜに披露して、父をかきくどいている。
気つかい
父千衛門や継母・「その」は娘みちを訪ねた(参照4)。必ず何がしかの手土産を持参した。みちの令状には「品々」とか「おみや」という言葉が数多く出てくる。母への令状には「此程はよふと御出いただき、久々にて御近々しく所々様(の)御左右も伺い、まことに有難くかりまいらせ候とある。さりながら早速の御帰りにて御残り(心残り)多くぞんじ上げ候。その節はおしな御みや沢山御持ちいただき、御かげで様にて外聞(部屋の朋輩などへ)かたがたまことにまことに有難かりまいらせ候。
大奥の女性
出典:「Wikipedia」
医家へ嫁す
田村家へ
江戸・本郷田村家は町医であった。田村監水は朝鮮人参に造詣が深く、20歳の時に将軍吉宗の命により、朝鮮人参の実20粒を拝領して自園に植え繁殖をさせたという。享保期にこれまで輸入に頼っていた朝鮮人参を国産化すことで、その責任者として田村監水に白羽の矢が立ったのである。宝暦13年(1763)事であった。当時、幕府が創設した「朝鮮人参製法所」の頭取として任命された。みちが嫁入りした相手は監水から数えて、4代目の元長で、医学館出役素読教授・小石川養生所出役見習である。
みち出産
みちは高齢のため後妻として嫁した。それでもみちは実家に差し出した文に「私事もだんだんと仕合せもよろしく」と、幸福感を吐露している。また他の手紙には「手前にても小児(つる/女児)出来、手ばかり掛かり、中々私事ちょっとの間も御座なく、御殿の御仕事も皆々断っている」と。この外に「此金子300疋、御小遣いのあそばし候様に」と、実家へ300疋届けている。1疋25文として1両1分位であろうか。娘時代から実家へ無心が続き、この事が史料の上では、みちの唯一の送金である。この頃が金銭的にも一番余裕があった時代であろう。
気配り
みちの夫・元長が弘化3年(1846)5月30日に亡くなるまでの凡そ7年間が、みちの家庭生活で最もはりがあり、仕合せな時期であったと思われる。この7年間の手紙は20通余で、手紙の内容も娘時代の御奉公の交際範囲とは異なった付き合いが拡がり、一家の主婦としての専念していることがわかる。しかし、みちの心には兄慶五郎の事件常に去来していた。兄の消息を知りたいと、日々案じており、1日も早く結着が付けられると、両親の心痛を思いやっている。しかし、兄は依然行方不明であった。
終焉の鼓動
幕末はぺリ-来航で、日本のグロ-バル化の起点となった。これに追い打ちをかけるようにコレラや麻疹(はしか)の大流行などで世情騒然となった。万延元年(1860)には、大老井伊直弼は登城のおり、水戸浪士により暗殺された。みちはこの国難を実家に文で連絡している。みちの生活感覚はすでに百姓農民の女としての生活感はなくなっている。同年父千右衛門は80歳、みちは53歳となっていた。父千右衛門は文久2年9月(1862)(82歳)に亡くなっている。
吉野みちは草深い青梅の有力な名主の家に生まれた。縁あって多摩地域の名主の家に嫁していたら刺激のない人生を過ごしたかもしれない-人生にはifはない-20歳の時にみちは御殿奉公に上がっている。しかし、町人や百姓出身の娘は水汲み飯炊きなどの下働きが主な仕事(下女)であった。この職階社会であっても刺激の富む職場環境(物質的)であった。みちの無心は不断なく続いた。しかし、幕末の混乱は、新しい時代の前触れの中に吉野みちはいた-そして、明治の御代もみちはいた。
エピローグ
小石川養生所跡
出典:「Wikipedia」
田村家存続のために吉野みちの半生を必死になってわが身を捧げてきた-みちの苦労の集積がなかったら、田村家は絶家していた。明治16年7月27日(1883)、そのみちも76歳の生涯を終えた。浅草・真竜寺の先塋の傍らに葬られた。戒名「積善院釈貞大姉」、諡号「君姓温良全婦徳」を呈上している。吉野みちは文政10年(1827)に青梅を出立して、明治16年(1883)に亡くなるまでの56年間、帰郷を果たせなかった。
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
引用史料
- 「青梅市史」(上巻)、「青梅市史編さん委員会」、東京都青梅市、平成7年10月20日、621~654頁
- 「御殿女中・吉野みちの手紙」、青梅市史史料集第40号、青梅市教育委員会、平成3年2月1日
参考資料
- 安藤優一郎著「江戸城・大奥の秘密」、文春新書(576)、2008年(平成20年)9月15日、第2刷発行、51~52頁
- 畑 尚子著「江戸奥女中物語」、講談社現代新書1565、2001年8月20日、第一刷発行
参照
(1)吉野みちの父は名主・吉野家8代目吉野千右衛門である。吉野家は1町9反歩という広い田畑を所持する大百姓であった。吉野家に遺されている宗門人別帳によると、持高17石5斗3升が記録されている。しかもこの数字は100年間変わっていない。いかに吉野家が安定した農業経営をしていたことがわかる。
(2)直訴(駕籠訴):幕府の重職にある人、大名などの駕籠が通行するのを待ち受けて直訴すること。
(3)本草学:中国の薬物学で、薬用とする植物・鉱物・動物の形態・産地・効能などを研究する学問。日本では江戸時代に全盛をきわめた。後に日本に自生する植物・動物などの研究に発展した。
(4)定宿:父千衛門や継母・「その」は娘を訪ねた。みちは宿下(やどさ)がり休暇が与えられていた。みちの場合、麹町にあった嶋屋を定宿としていた。また父千座衛門も出府の際には、嶋屋を「公事宿」(くじ)を定宿にしていたため、親子の対面場所であった。



